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大阪地方裁判所 昭和54年(ワ)3862号 判決 1987年5月08日

原告

田中宏

田中健次

田中優子

田中美穂

右三名法定代理人親権者

田中宏

原告

田中良治

右法定代理人親権者

田中昭

田中圭子

原告ら訴訟代理人弁護士

吉岡良治

津留崎直美

藤井光男

被告

大立淳子

右訴訟代理人弁護士

鬼追明夫

太田稔

吉田訓康

辛島宏

安木健

石田法子

出水順

右鬼追明夫訴訟復代理人弁護士

的場俊介

主文

原告らの請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は、原告らの負担とする。

事実

一  左記の各事実は、いずれも当事者間に争いがない。

1  被告は、「大立産婦人科医院」(以下「被告医院」という。)という診療所を開設している医師である。

2  訴外亡田中佳津美(昭和二〇年三月四日生)は、出産に備え、被告の診療を継続して受けるため、被告病院に昭和五二年三月二三日から通院し、同年一〇月二九日午前一〇時三〇分ころ入院した。

3  佳津美は、同日午後二時一四分、原告田中良治を被告医院において出産したが、出産後、性器出血が持続したため、被告の判断で東條病院に転送され、さらにその後大野病院及び関西医大附属病院に順次転送された。

4  なお、佳津美は、昭和五〇年五月一七日、被告医院において、原告田中美穂を出産したが、その際にも、性器出血があつた。

二  原告は、次のとおり述べた。

1  原告らの身分関係

原告田中宏は、佳津美の夫であつた者であり、原告田中健次、同田中優子、同美穂及び同良治は、いずれも原告宏と佳津美の子であり(なお、原告良治は、昭和五三年一一月九日、田中昭・圭子夫婦と養子縁組し、同夫婦の養子となつた。)他に子はない。

2  本件医療事故の発生

佳津美は、昭和五二年一〇月二九日午後二時一四分、被告医院において、原告良治を出産したのち、性器から大量出血が続いたので、被告の判断により、同日午後四時三〇分ころ、救急車で車條病院へ転送された。同病院において、佳津美は、子宮破裂と診断され、子宮全摘手術が行われたが、大量出血のため腎臓の機能が悪化し、そのため同年一一月二七日、人工透析の設備のある大野病院に転送されたが、同女の病状は、むしろ悪化の傾向を示したので、さらに同年一二月一九日、関西医大付属病院に転送され、結局一二月三〇日、同病院において死亡した。関西医大における当初の診断では、敗血症、輸血後肝炎、性器出血等というのであり、死因は、心不全であつた。

3  因果関係

佳津美の直接の死因は、関西医大病院での診断どおり心不全であるが、それは、そもそも被告医院での大量出血に起因するものである。

4  被告の責任

被告は、産婦人科医師として、時々刻々と変化する患者の病状に応じ、適切と認められる措置を迅速に実施しなければならないものであり、とりわけ分娩に伴う死亡例の中では、出血を原因とする事例がその大半を占めているのであるから、被告としては、佳津美に対し、その予防及びこれに対する対応処置につき十分な注意を尽くすことを義務づけられているものであるところ、佳津美の死亡は、次のとおり、被告の医師としての右注意義務を怠つた過失により生じたものである。

(一)  事故発生前の説明義務違反または転送義務違反

(1) 佳津美が、昭和五〇年五月一七日、被告医院において、原告美穂を出産したことは、被告も認めているところであるが、その際、大量の出血があつたので、被告は、原告宏に対し、佳津美の胎盤が癒着しているので、子供を急に引きずり出すと子宮破裂が起きるなどと説明した。こうした経緯からすると、被告は、佳津美の体質からして次の子を生むことが危険であることを十分認識していたのであるから、これについて説明、指導すべきであつた(医師法二三条)にもかかわらず、佳津美が原告良治を生むことについて、「安心して生みなさい」と述べ、原告良治の出産に際して生じうる危険について、何らの説明もしなかつた。

(2) また、被告は、佳津美が、原告美穂を出産する際、大量出血があつた事実からすれば、原告良治を出産する際にも、再び大量出血を起こし、被告医院では十分な治療が困難な重大な疾患が発生することを予見することができ、予め佳津美を転送することができたにもかかわらず、漫然これを怠つたため、佳津美に子宮破裂に対する十分な治療を受けさせる機会を失わせた。

(二)  事故発生後の診察過誤と転送の遅れ

(1) 佳津美は、原告良治を分娩後間もなく、大量の性器出血に見舞われ、かつ相当強度のショック状態に陥つた。このことは、被告が佳津美に対し、短時間のうちに、いずれも代用血漿であるパンD2及びヘスパンダ(いずれも一本五〇〇cc入り)をそれぞれ三本(合計一五〇〇cc)及び二本(合計一〇〇〇cc)点滴し、強心剤であるビタカンを二本も注射していることから明らかである。

(2) ところで、出産時、妊婦に大量の性器出血があり、ショック状態に陥つているときは、子宮破裂など重大な疾患が発生している可能性があるから、医師としては、直ちに輸血の措置をとるとともに、子宮腔内の用手探索を試みて出血の発生源の確認に努めなければならない。特に、子宮破裂の場合には、外出血より内出血の方が多いことから、外観上出血が少ない場合でも安心することはできないとされている。

(3) しかるに、被告は、右(1)のように、佳津美に子宮破裂の疑いが濃厚に認められる状況の下で、漫然、血圧低下の症状のみを重視して血圧を高める注射を継続する(これは、子宮破裂に対する処置としては誤つたものである。)のみで、肝心の出血の症状を軽視し、輸血の措置をとらず、子宮破裂であることに全く気づいていないうえ、子宮腔内の用意探索も試みていない。つまり、被告は、東條病院に転送した午後四時三〇分までの間、佳津美を放置していたにひとしく、しかも転送先の東條病院に対し、佳津美の症状について十分な説明をしなかつたため、同病院での時機を失せぬ手術が行われない結果となつた。

5  損害

<中略>

よつて、原告らは、被告に対し、主位的に債務不履行、予備的に不法行為による各損害賠償請求権に基づき、原告宏において金一一〇五万五〇六五円及びその余の原告らにおいて各金四二二万七五三二円、並びに右各金員に対する債務不履行または不法行為の後である昭和五三年一月一日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いをそれぞれ求める。

三  原告らは、

被告は、原告宏に対し金一一〇五万五〇六五円、同健次、同優子、同美穂及び同良治に対しそれぞれ金四二二万七五三二円並びに右各金員に対する昭和五三年一月一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

との判決と仮執行の宣言を求める旨申し立て、

被告は、

原告らの請求をいずれも棄却する。

との判決を求めた。

四  被告は、次のとおり述べた。

1  原告らの身分関係については、知らない。

2  佳津美が、原告良治を出産した際、性器出血が持続したので、佳津美を東條病院へ転送したことは認めるが、その出血は、通常より少し多いという程度にすぎなかつた。また、被告は、午後二時五八分に救急車の出動を要請しているのであつて、原告らが同病院への転送時を午後四時三〇分と主張しているのは誤りである。佳津美が東條病院へ転送されたのち死亡するに至つた経緯は、知らない。

3  被告には佳津美の死亡につき債務不履行責任も不法行為責任もない。

(一)  被告には事故発生前の説明義務違反及び転送義務違反のいずれも存しない。

佳津美が、昭和五〇年五月一七日、原告美穂を出産した際、出血が多少多かつたことは認めるが、それは個人差の範囲内であり、特に異常というものではなかつた。もし異常な出血量であつたのであれば、被告が直ちに救急車の出動を要請したはずであるが、そのような措置をとつていないことは、特に異常な出血量でなかつたことの証左である。したがつて、被告としては、佳津美が原告良治を出産する際、大量出血その他母体に危険が生ずる特段の事態を予測し得なかつた(なお、現実にも、分娩後大量出血の事態が生じていないことはすでに述べたとおりである。)のであるから、そもそも危険についての説明義務も出産前に佳津美を他の病院に転送する義務も存しなかつたもので、その違反ということはありえない。

(二)  被告には事故発生後の診察過誤も転送の遅れも存しない。

(1) 原告らは、佳津美が、原告良治を出産後まもなく、大量の性器出血に見舞われ、かつ相当強度のショック状態に陥つたと主張するが、そのような事実はない。佳津美が、原告良治を出産後、出血が持続したことは、事実であるが、それは、特に多量であつたわけではない。被告は、大事をとつて、佳津美を救急車で東條病院へ転送したのである。被告が、佳津美を救急車で送り出す前に測定した同人の血圧は、最高一〇〇mmHg(以下単位は略す。)最低六〇と正常であり、このことは出血量が大したものでなかつたことを物語つている。

なお、原告らは、代用血漿であるパンD2とヘスパンダを点滴したこと、ビタカンを二本打つたことから大量出血、ショック状態を推測しているが、被告が佳津美に対して現実に使用した代用血漿は、パンD2とヘスパンダを合わせて、五〇〇cc入り三本に止まり(なお、あと二本を救急車内に予備として持ち込ませたが、全く使われないまま返還されている。)ビタカンは被告がすべての妊産婦に対し心臓保持、強化のため施用しているもので、佳津美の病状を特に考慮して施用したものではない。

(2) 被告が佳津美を子宮破裂と診断せず、かつ長時間放置していた点に過失があるという原告らの主張も、当らない。

確かに、被告は、佳津美の症状を子宮破裂であると診断しなかつたが、同人の症状は、出血量が少し多い目という程度であつて、一般状態も悪いものではなかつたから、子宮破裂とは到底考えられなかつた。それよりも、午後二時三〇分から三五分ころに胎盤が出た後、出血が持続し、弛緩出血かもしれないと思つたので、大事をとつて、東條病院へ転送することとしたのであり、そのため午後二時五八分には電話で救急車の出動を要請している。それまでの間、子宮収縮剤であるプロスタルモンや止血剤であるアドナを注射し、子宮内に圧迫タンポンを挿入するなどして止血に努めるとともに、代用血漿であるパンD2とヘスパンダを点滴し(なお、血液そのものを入れるのは、出血の場合、心臓の負担になるので、かえつて好ましくない。)、失われた血液の回復を図つており、この点滴は、東條病院に到着するまで救急車内でも続けた。このように、被告としては、佳津美に対し、迅速、適切な治療をしていたのである。

仮に、佳津美が子宮破裂であつたとしても、個人医院の産婦人科医師として取るべき措置は、右と同じであつた。

因みに、佳津美が東條病院での手術を受けた約一週間後、被告は、被告医院に勤務する山辺シマエ助産婦に東條病院まで佳津美の見舞いに行かせたが、その際、佳津美は、元気に話をしており、東條病院の播磨昌幸医師も「現在は経過良好と考えます」と名刺に書いて、それを山辺助産婦に手渡している。このことからも、被告の治療に誤りがなかつたことは明らかである。

4  原告の主張する損害関係の事実については、知らない。

五  <証拠省略>

理由

一診療契約

被告が「大立産婦人科医院」(本件医院)という診療所を開設している産婦人科医師であること、訴外亡田中佳津美(昭和二〇年三月四日生)が、昭和五二年三月二三日、被告医院において被告から妊娠の診断を受け、その後被告医院に通院し続け、同年一〇月二九日出産のため被告医院に入院したことは当事者間に争いがない。これによると、佳津美と被告との間に診療契約(被告が、善良な管理者の注意をもつて、佳津美の分娩並びにその後の産婦及び新生児の健康保持にあたる債務を負担する旨の準委任契約)が成立しているものと認められる。

二佳津美の死亡に至る経緯

1  佳津美は、昭和五二年一〇月二九日午後二時一四分、被告医院で原告良治を出産したが、出産後、性器出血が続いたので、被告の判断により、東條病院へ転送されたこと、佳津美が、右出産に先立ち、昭和五〇年五月一七日被告医院で原告美穂を出産した際にも性器出血があつた前歴の持主であることは、いずれも当事者間に争いがない。

2  右1の事実並びに<証拠>を総合すると、次の事実を認めることができる。

(一)  原告良治を懐妊するまで

(1) 佳津美は、昭和四二年、原告田中宏と婚姻し、同四三年三月第一子として田中博之(同四七年死亡)を、同四六年一月五日第二子として原告田中健次を、同四八年一一月三日第三子として原告優子を、同五〇年五月一七日第四子として原告田中美穂をそれぞれ出産したが、うち原告優子及び同美穂は、自宅近くの被告医院において出産した。また、佳津美は、同四七年ころ、被告医院で妊娠中絶手術を受けたことがある。

(2) 佳津美が、昭和五〇年五月一七日、第四子の原告美穂を出産した際、出血の量が通常より若干多かつたので、原告宏は、次の子を生んでよいかを心配し、被告に相談したところ、被告は、大丈夫である旨答えた。

(3) 佳津美は、昭和五二年三月二三日、被告医院で被告の診察を受け、分娩予定日が同年一〇月三〇日と診断された。以後、佳津美は、同医院に通院して定期的に診察を受けたが、その間血圧検査(定期的に受診し、最高一一〇前後、最低六〇前後であつた。)、採血検査(同年五月九日に受診した。)などの結果では特に異常はなく、胎児の発育も順調であつた。

(二)  入院から転送されるまで

(1) 佳津美は、昭和五二年一〇月二九日午前一〇時三〇分ころ、軽度の陣痛があつたので、原告宏に付添われて、被告医院に入院した。被告は、佳津美に対し、排便を促して産道を拡大するためには、まず石鹸浣腸を行い、まもなく陣痛が強まり出したので、栄養剤として五プロのブドウ糖五〇〇cc、ビタミンB1一〇ミリリットル、同C一〇〇ミリリットル及びネオラミン五〇ミリリットルを点滴注射し、分娩後の大量出血の際に必要な輸血や輸血に代わる補液に備えて血管確保を行つた。

(2) 同日午後一時四〇分ころ、佳津美は、直近に迫つた分娩に備え、山辺助産婦の付添いで、点滴をした状態のまま分娩室に入つた。分娩室では、山辺助産婦が佳津美の心音を聴取してその経過を被告に報告し、被告は、その報告に基づき自ら分娩室に赴いて佳津美の状態を確認したが、佳津美には特に異常は見られなかつた。

(3) 午後二時すぎころ、被告は、被告医院に勤務する新田智恵子看護婦とともに、分娩室に入り、そのころ、分娩が始まり出したので、ブドウ糖の点滴を代用血漿であるヘスパンダに代え、ビタカンを一本打つた。

佳津美は、午後二時一四分、体重三五〇〇グラムの原告良治を分娩した。

(4) 分娩後、被告は、佳津美が胎盤娩出するまでの間、ビタカンを一本打ち、止血剤アドナ二〇ccを筋肉注射し、子宮の収縮をよくするために氷のうを佳津美の腹部に置く処置を取つたほか、前記点滴を続けた。

(5) 午後二時三五分ころ、佳津美は、胎盤を娩出したが、このころから出血量が通常より多くなつたので、被告は、前記点滴を続けたほか、胎盤娩出前後ころに子宮収縮剤プロスタルモン一本を注射し、その後子宮内に圧迫タンポンを挿入して止血に努めた。また、山辺助産婦に娩出した胎盤に欠損がないかを調べさせ、胎盤に異常がないことをさらに佳津美の血圧検査をし、最高が一〇〇以上あることをそれぞれ確認した。しかし、これらの処置にかかわらず、出血が持続したので被告は、胎盤娩出一〇分後ころに、再びアドナ二〇ccを静脈注射したが、なおも出血が止まらないうえ、血の色が鮮紅色を帯び止まりにくいものと思われたので、人的物的施設の備つた病院へ転送するのが適切と判断した。しかし、この時、被告は、佳津美の症状につき、軽い弛緩出血かもしれないと想像していただけで、子宮破裂であるとは全く考えていなかつた。そのため出血源を確認するために子宮腔内の用手探索を試みるなどの処置を取らなかつた。

(6) 被告は、原告宏を分娩室に呼び、救急病院へ転送させた方がよい旨伝げ、原告宏の了解を得た。そして、過去に何回か患者を転送したことのある東條病院の医師を電話口に呼び出し、同医師に対し、佳津美の症状として、血圧は一〇〇―六〇、一般状態良好だが、出血量がやや多いなどごく概括的な説明をして、東條病院の転送受入の承諾を得た。そこで、被告の指示を受けた新田看護婦は、午後二時五八分大阪市城東消防署に電話で救急車の出動を要請した。

(7) それから五分以内に救急車が被告医院に到着したので、佳津美を点滴をした状態のまま車内に搬入し、原告宏のほか新田看護婦と山辺助産婦が同乗した。

また、点滴は、その時までにパンD2とヘスパンダを合わせて二本(一本五〇〇cc)使い、三本目を使用中であつたが、被告は、なお転送途上での使用のため予備として二本を新田看護婦に携行させた。

(8) 佳津美らを乗せた救急車は、点滴が続けられたまま走行し、午後三時二五分、東條病院に到着した。

(9) なお、被告医院での佳津美の出血量であるが、代用血漿一本五〇〇ccを三本使用していること、原告宏本人は、分娩室に呼ばれた際、佳津美は一杯出血していた旨供述していること、後に認定するとおり、転送先の東條病院では、佳津美は初診時にすでに大量出血のためかなり衰弱していたことからすると、佳津美は、被告医院を出発した時点でもかなり大量の出血があつたものと窺うに足りる。但し、この点に関する被告本人の供述は、曖昧であり、また、救急車内二十数分間の転送過程での病状変化が判然とせず、被告医院では佳津美の出血量の測定をしていないので、結局、その出血量は、証拠上具体的には明らかでない。

(三)  転送後死亡まで

(1) 東條病院では、午後三時四〇分ころ、まず山崎医師が佳津美の診察にあたり、血圧九六―四八、脈博一分間七二、出血多量、一般状態不良と診断し、ことに、出血状態については、子宮内に挿入されている圧迫タンポンから血液がにじみ出し、それを抜きかけると、大量の血液が流れ出てきたため、直ちに輸液を開始するとともに、輸血の準備を始め、播磨昌幸医師に診察を引き継いだ。播磨医師は、佳津美の状態を診察した結果、大量出血の原因究明はさておき、緊急事態に対応すべく即刻開腹手術をする以外に助命の手段はないと判断した。

かくして午後四時四〇分、輸血を開始し、一本二〇〇ccの点滴を五本早い速度で続け、午後五時二五分、播磨、山崎両医師により手術が開始された。開腹時の所見としては、子宮の左側が破裂し、さらに左側子宮動脈も破裂していた状態だつたので、子宮を全部摘出したが、DIC(血管内凝固症候群)症状が明らかとなり、これにより子宮下部の組織からの出血が止まらず、腸まくを閉じ、ドレン二本を挿入し、午後八時三五分、手術は終了した。手術中の総出血量は一万cc、輸液五五〇〇cc、輸血五八〇〇ccに及んだ。

(2) 佳津美は、その後東條病院に入院したままであつたところ、手術後三日目から出血量が減少し、食事を摂取するまでになつたが、その後急に食欲がなくなり、嘔吐を催したため、診察した結果、腎不全、腎臓障害が明らかとなり、同年一一月二五日、人工透析の設備のある大野病院へ移された。

なお、山辺助産婦は、被告の指示で、手術一週間後ころに東條病院を訪れ、いくらか元気を取り戻している佳津美に会つたのち、播磨医師に佳津美の症状を尋ね、同医師から、経過良好の回答とその旨を記入した名刺(前掲乙第三号証)の交付を受けた。

(3) さらにその後、婦人科的な処理も必要であることなどから、佳津美は、同年一二月一九日、大野病院から関西医大に移されたが、結局、同月三〇日、同医大で死亡した。

(4) 死因は、病理解剖がなされていないので、必ずしも明確ではないが、直接には重症感染症と考えられる(もつとも、どこに感染巣があつたのかは明らかではない。)。そして、重症感染症の原因は悪液質であり、さらにその原因は、子宮破裂術後、肝腎障害であつた。換言すると、子宮破裂の手術後、しばらく意識のない状態が続き、栄養状態が悪くなつて悪液質となり、それが原因で重症感染症にかかり死亡したと考えられる。

以上の事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

三因果関係

1  佳津美の死因は、直接には重症感染症であるが、それは、佳津美の開腹子宮摘出の手術後の肝腎障害に起因し、さらに、右手術は、被告医院及びそれに続く救急車内での出血が多量であつたために、転送先の東條病院がやむなく行つたものであることは前述のとおりである。

2  もつとも、佳津美が東條病院で緊急の開腹手術を受けた後、種々の症状変化を経ながらなお約五〇日間生存していたことは、前述のとおりであり、また被告本人の供述中には、被告は、佳津美に対する関西医大での診療録の記載から、膣端縫合部(子宮全摘手術後、外界と腹腔内とが交通しないように、上膣壁と下膣壁とを縫い合わせた部分)から出血が持続していたことに不審を抱いているという部分があり、かつ、証人馬殿正人の証言中にも、佳津美の死因として、同人が関西医大に入院していた当時、その腹部を押さえると膣のところから淡い血清があつた事実から、東條病院における手術の過程において、佳津美の腹腔内に血腫を作つた可能性を指摘する部分がある。

3  以上によれば、佳津美の死亡には、被告が転送の措置を講じた後におけるなんらかの人為的原因(それは、必らずしも東條病院以下の転移先における医療過誤を意味するものでない。)が介在したのではないかとの疑念を払拭することができないのであるが、被告医院における分娩後の異常出血が右死亡の少なくとも間接的原因をなしていたことは、否定するを得ない。要は、右異常出血に対する被告の事前又は事後の措置に過誤があつたかどうかである。

四被告の債務不履行ないし過失

1  まず、分娩前の説明義務違反と転送義務違反について検討する。

(一) 分娩前において、妊婦の症状などから、分娩時に大量の出血が予測できた場合には、産婦人科医師としては、その旨を妊婦に告げるとともに、自己の医院では人的又は物的に適切な分娩時の処置ができないおそれがあれば予め人的物的施設の整つた病院での分娩に委ねる措置を講ずる義務があるというべきである。しかし、本件の事案において、佳津美が、昭和五〇年五月一七日被告医院において第四子として原告美穂を出産した際、通常より出血が多かつたという前歴の持主であることは、前認定のとおりであるが、そのことから佳津美の第五子分娩の際に前回を上回る大量出血が高度の蓋然性をもつて予測されたことを示す証左はない。

(二)  また、佳津美は、原告良治が妊娠二ケ月末期の時から出産まで定期的に被告の診察を受けているが、血圧や採血検査など何ら異常がなかつたことは、前記判示のとおりであり、この点からも本件出血を予測することは困難である。

(三) 以上によれば、本件では、佳津美が原告良治を分娩する際、大量の出血があると予測し得たとは認められず、そもそも説明義務も転送義務も存しないのであるから、その違反ということもあり得ない。

2  そこで、分娩後の診察過誤と転送の遅れにつき判断する。

(一)  <証拠>を総合すると、次の事実が認められる。

一般に、妊産婦死亡のもつとも重要な原因のひとつとして分娩時の大量出血が挙げられるが、その原因には子宮破裂、いわゆる弛緩出血、胎盤剥離異常などがある。ところで、分娩直後に大出血が起つた場合、どのように処理するかについては、最終的には出血源の確認とその排除が必要である。出血源が不明な場合は、積極的に子宮腔内の用手探索を試みることが大切であり、これによつて、子宮破裂などの思わぬ出血源が明らかになることがある。なお、子宮破裂は、約二〇〇〇件に一例の割合で発生するとされており、頻度は少ないが、突発的に現われる症状で、診断は必ずしも容易でないうえ、子宮破裂では、外出血よりも内出血の方が多いので、外観上出血が少ないからと安心していると、ショック症状が進行することになるため、十分な観察が必要である。子宮破裂が明らかになれば、輸液、輸血による全身状態の改善を行い、できるだけ早期に緊急手術をしなければならない。もつとも、出血源の確認とその排除は、最終的、根本的な治療であり、その診断はすぐにできるものではないので、大量出血があつた場合、差し当たり、子宮収縮剤や止血剤などにより出血量の軽減に努めるとともに、すでに失われている血液を補うために、血管を確保して、輸血や補液を行うことが必要である。なお代用血漿は、一日の使用量はせいぜい一五〇〇ないし二〇〇〇ミリリットルまでであり、血液の入手次第、輸血を開始する。昇圧剤は、血管内凝固に対して促進的に作用したりするので、かえつて悪結果を生む可能性がある。これらの処置によつても出血が止まらない場合には、原因は腹部にあることになるので、開腹手術をせざるを得ないことになる。

以上の事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(二)  右(一)の事実に基づき、被告の診察過誤と転送の遅れについて検討する。

(1) まず、原告らは、被告が子宮破裂であると診断していないうえに、子宮腔内の用手探索などにより出血の発生源の確認さえしていないことを主張する。

確かに、被告は佳津美の症状につき子宮破裂であるとは全く気づいていなかつたこと、そのために子宮腔内の用手探索も試みていないこと、子宮破裂では、外出血よりも内出血の方が多いので、外観上出血が少ないからといつて安心できないこと、分娩直後の大量出血では、最終的には出血源の確認とその排除が必要であることは、すでに判示したとおりである。

しかし、子宮破裂の診断そのものが必ずしも容易でないうえ、仮に、被告が佳津美の病名を子宮破裂であると診断し得たとしても、被告医院では、これに対応すべき医療手段を講ずるだけの人的物的施設が整つていないのであるから、結局は、他院へ転送する以外に方法はない。そうだとすると、出血量が通常より多く、子宮破裂の疑いが生じたときは、出血源の確認をすることよりも、むしろ手術可能な病院へ転送することを急ぐ方が肝要であるともいいうる(勿論、出血源の確認をし、転送先の病院にその旨連絡すれば、転送先ではそれに従つて予め輸血の確保や手術の準備など転送されてくるのに備えることができる利点はあるが、逆に、手術する設備もないのに、いつまでも出血源の確認にこだわつていると、適時に手術する機会を逸することにもなりかねない。)。したがつて、被告が子宮破裂と診断していないことや出血源の確認を怠つたことから、直ちに被告の診察過誤として債務不履行ないし過失を認めることはできない。

(2) そこで、被告が佳津美を転送するまでに取つた処置が適切であつたかについて検討するに、大量出血があつた場合、とりあえず、子宮収縮剤や止血剤などで出血量の軽減に努めるとともにすでに失われている血液を補うために、血管を確保して、輸血や補液を行うことが必要であるとされているところ、前示のとおり、被告は、分娩前から栄養剤として五プロのブドウ糖五〇〇ccなどを点滴注射することによつて血管の確保を行つていること、分娩後、止血剤アドナ二〇ccを筋注し、胎盤娩出ころから子宮収縮剤プロスタルモンを注射し、さらに子宮内に圧迫タンポンを挿入して止血に努めていること、また胎盤の欠陥や血圧検査を実施していること、なおも出血が持続したので再びアドナ二〇ccを静注していること、分娩開始から救急車が東條病院に到着するまで代用血漿の点滴を続け、失われた血液の補填に努めていること(なお代用血漿の使用量は、被告医院では計約一五〇〇ccであり、一日の使用量として多すぎることはない。)が認められるのであつて、以上は、分娩時の出血の処理として適切なものということができる。

なお、原告らは被告が昇圧剤を打つたことが誤つた治療である旨主張するが、確かに昇圧剤は、血管内凝固に対して促進的に作用したりするので、かえつて悪結果を生む可能性があるものの、被告が昇圧剤を使用した事実は、本件全証拠によつても認めることができず、原告らの右主張は採用できない(もつとも、被告が分娩前後に強心剤ビタカンを二本打つたことは判示のとおりであり、<証拠>によれば、ビタカンには血圧上昇作用があることが認められるが、他方、被告本人の供述によると、異常になるほどの血圧上昇作用はないことが認められるので、ビタカンの使用が、被告の処置が適切であつたと認める妨げになるものではない。)。

(3) そこで、最後に、転送の遅れについて検討するに、佳津美は午後二時一四分に原告良治を分娩し、同二時三五分ころに胎盤を娩出したが、そのころから出血量が通常より多くなつたので、被告は、午後二時五八分、転送するために電話で救急車の出動を要請したことは、前判示のとおりである。問題となるのは、出血量が通常より多くなつた午後二時三五分ころから、救急車の発動を要請した同二時五八分までの約二三分間が、必要な時間といえるのかという点であるが、一般に、出血が通常より多いときには、子宮収縮剤などで止血に努め(なお、<証拠>によると、子宮収縮剤は投与してから五分以内に効果があらわれることが認められる。)、それでも出血が持続した場合には、開腹手術を必要とすることが多いのであるから、個人医院としては、速やかに転送すべき義務があるというべきであり、特に本件では、被告は、子宮破裂であると診断せず、かつ出血源の確認を試みることもせずに転送しているのであるから、それだけ迅速に転送すべきであつたといわねばならない。そして、被告は、右約二三分間のうち、当初約一〇分間、子宮収縮剤や止血剤などで止血に努め、しかしそれでも出血が持続したので、転送する方が賢明と判断し、転送することにつき原告宏の了解を得た後、直ちに転送先の東條病院に電話で現在の佳津美の症状を説明し佳津美の受け入れを依頼して承諾を得た上、大阪市城東消防署に救急車の出動を要請したことが認められるのであつて、これらの措置が緊急の事態に対処するものとして適切を欠いたものであつたとは、いうことができず、また、以上を約二三分間で処理したことが遅きに失したと断ずることも相当でない。

もつとも、被告からの要請で出動した救急車は、約五分後に被告医院に到着し、直ちに佳津美を搬入して東條病院へ向かつたが、右出発後同病院に到着するまでに二十数分間要しているところ、<証拠>によると、被告医院から車で五ないし一〇分の距離に関西医大があることが認められるので、被告が転送先に東條病院を選んだことが適切であつたのかは疑問がないわけではない。とりわけ本件では、東條病院に到着したときには、佳津美の一般状態は極めて悪化していただけに、その感を強くする。しかし、<証拠>によると、被告は、関西医大では決められた時間以外は患者を受け入れないと認識していたことが認められるので、転送先に東條病院を選んだことを非難するのは当らない。

したがつて、転送の遅れについても、理由がないといわなければならない。

五結論

以上の次第で、被告においては、佳津美との間の診療契約に基づく債務につき不履行のかどはなく、また、同人の死亡をもたらす故意又は過失があつたともいうことができないから、原告の主位的及び予備的請求は、いずれも理由がないものである。よつて、これを棄却することとし、なお、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官戸根住夫 裁判官加登屋健治 裁判官大島眞一)

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